アンジャスト・ナイツ3/Balance of power #4「Godmother④」
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「ポンゾ錯視って知ってるか?」
そう高らかに問いつつ、フェフ・フリートウッドは自慢げな表情で同僚を見た。
声をかけられた同僚——レイド・アーヴァントは手を休めることなく、フェフの目を見つめ返す。
——少なくとも、今この状況でするような質問では無い。
レイドの目はいつも以上に
書類の作成・運搬。データの整理。兵器の搬出進捗確認。警備の配置決め。その他未完了の作業が十数件。それらを明日早朝までに終わらせる必要がある。平時の事務員だけではまるで手が足りず、技術屋や一般兵、果ては部隊長までもが駆り出されてもなお、業務は一向に終わる気配がない。晩秋という時期も相まって、まるで室内は越冬前のアリの巣を再現したような忙しなさを呈している。
フェフはそのごた混ぜの中で、片手で端末を操作しながら、もう一方の手で雑誌の頁を捲るという器用なことをやっていた。見てくれは最悪だが、仕事に手をつけている以上キリギリスとは断じられない。むしろ、あれで人並み以上の仕事はできているのでタチが悪い。
何より、ナイツロード本部火力支援小隊「ベアグノズ」隊長という役職にある彼を頭ごなしに叱責できるのは、同役職の先輩か幹部くらいのものだ。
「——その質問、今答えないといけませんか?」
突飛な問いに、レイドは問いで返す。それの意味するところは、このクソ忙しい時に話しかけるな、だ。しかし、フェフはそれに気づかない。もしくは、気づいた上で無視した。
「モチロン」
「そうですか……」
一応レイドは敬語を使ってはいるが、普段の品行方正な雰囲気は鳴りを潜めている。
レイドから見てフェフは役職的にも年齢的にも上なのだが、腐れ縁——もとい、それなりに付き合いが長いのもあって、比較的打ち解けて語り合う間柄だった。それに、今は同じ仕事を預かる責任者という意味では対等の関係だ。
とはいえ、先輩の質問に
「ンで、知ってるか? ポンゾ錯視」
知っていた——が、レイドは「聞いたことないですね」と無学の振りをする。そうしないと、この男は決まって不機嫌になるのだった。本やテレビ番組で聞きかじっただけの知識を、周りの人間に披露しては自慢したいのだ。
レイドの底意の嫌味など知る由もなく、フェフは機嫌をよくして説明を始める。
「こーやって、一点で交わる二つの斜め線があるとするだろ?」
フェフは両手の人差指で三角を作る。その形を保ったまま、左右の中指を伸ばして平行に並べた。
「その内側に、同じ長さの平行の線を上下に置くと、上の方が長く見えるんだ。ほら、人間の目ってのは常に立体空間で奥行きを感じてるだろ? 遠くの物体が近くの物体とおんなじ大きさに見えるなら、実際には遠くの物の方がデカイと無意識に思う。だからそう見えるらしい」
どこかの科学雑誌か情報番組で知ったのだろう。良く言えば簡潔。悪く言えば、事前に知らないと理解できない程度には粗っぽい説明だった。
単純な戦闘任務のみならず、各種武器装備の開発に協力することもあるレイドにとっては、よく知った概念だ。
例えば、視覚代行デバイス。
職業柄、戦闘での負傷などで視力が落ちたり盲目になる兵士は少なくない。そういった人間の為に、指や舌などの部位に装着し、触覚情報で空間認識を行う装置が研究開発されている。
レイドが経験したのは装置の小型化や電極アレイの改良といったハードウェア部分の業務が主だったが、仕事を共にしたシステムの開発者によれば、視覚代替機能を用いても錯覚は起こるらしい。実際の視覚情報より、見えていた時の経験のほうが優先されるとのことだった。
発生しうる錯覚を網羅し、検証し、是正できるものは是正する。中々に骨の折れる作業だったが、命のやり取りが無い分、こういった仕事の方が好きだった。
レイドが想起している間も、依然としてフェフは弁舌を振るっている。
「で、そもそもこの錯視がどうして生まれたか知ってるか? 天体の——」
「レイド、いるか」
毒にも薬にもならない
グーロ・ヴィリヴァス。
レイドの所属する戦闘小隊「デュランダル」の隊長。
筋肉質の巨体と黒い長髪の間から覗かせる鋭い眼光に違わず、見た目通りの武闘派で知られる男だ。
その彼が、普段よりも数段険しい視線でこちらを見ている。
グーロの表情からすぐに要件を察したレイドは、手の中の書類を机に戻して立ち上がった。
「すみません、10分ほど席を外します」
フェフが呼び止める間も無く、レイドはグーロと共に自動扉の外へ消えた。
ナイツロード本部レヴィアタン上層の幹部室と下層の居住区を結ぶ階段は、全部で6つ。
そのうち、北東に位置する第4通路は特段人通りが少なかった。
理由は単純で、下層の北東部は非常用備品倉庫、上層の北東部は査問室があるが、どちらも普段使いするような場所ではないからだ。
定期的に警備の巡回と清掃員が通るぐらいで、それ以外は人っ子一人寄り付かなかった。そのせいで、入団してそれなりに年数を経た団員でも、この場所を通ったことのある者は少ない。
だからこそ、ヴァレンティナは密談の際にいつもこの場所を指定した。
部屋では出入りの瞬間を見られる。だからと言って、ここではハリウッド俳優と同等以上に有名な彼女と、公共施設内で何度も会うというのはそれこそ不自然だ。
尾行にさえ気を遣っていれば、この場所は人払いの必要のない、壁のない告解室になる。
夕暮れの光が窓から差し込み、白い廊下を
踊り場で腕を組み壁に寄りかかっていたヴァレンティナは、静寂に足音が混ざったのを耳にし、伏せていた顔を上げる。
階段を登って姿を現した二つの人影に対し、
「遅ぇぞ」
開口一番、難癖をつけた。
対するレイドは、申し訳なさそうな顔をしながら頭を下げる。
「済みません。僕も忙しくて……」
「忙しいのはお互い様だ。女との待ち合わせ時刻はキッチリ守らねェと、将来色々と失敗するぞ」
「は、はぁ」
唐突な説教にレイドは何のことか分からず、とりあえず相槌を打ってみる。
一方レイドと共に訪れたグーロは、目を伏せて謝罪の意を示した。
ナイツロード内では特に腕の立つ方で通っている二人でも、さすがにヴァレンティナとは地位も実力も比べるべくもない。二人にできるのは、大人しく彼女の言うことを聞くことだけだった。
「まぁいい……本題に入るか」
その言葉を聞いたレイドとグーロは、眼差しを真剣なものへと変える。
二人の表情を確認し、ヴァレンティナは再度口を開いた。
「周りの人間に不信がられねえ程度に調べてはみたが——怪しい情報はからっきしだ。いい噂はついぞ聞かないが、悪い噂も所詮噂に過ぎねえ」
「そうですか……」
思わず落胆の言葉を漏らしたレイドに対し、ヴァレンティナは鼻を鳴らす。
「まぁ、この程度の調査で裏が見えるなら、奴の底も知れるがな」
奴——
レイドの頭の中に、薄ら寒い笑みを
TMMI社の壊滅と、それに続くセントフィナス王女の護衛任務から——エーカーが英国諜報機関Mi6に対する密偵であると、団長がレイドに聞かせてから約3ヶ月。
その間レイドは日々の任務の合間を縫い、あらゆる手を尽くしてエーカーの素性を探っていた。
と言っても、彼が良からぬ悪事を企んでいるという決定的証拠はない。
むしろ彼はこの傭兵団の為に危険な役を背負い、自社の利益の為に精勤している。そうでなくては、政府組織への諜報活動など務められない。
模範的な社員とは程遠いが、少なくともイリガル・エーカーという一団員が、ナイツロードに弓を引く動機も道理もない。
ただ——あの男をこのまま放っておくことが良いとは思えない、という疑念だけがレイドを突き動かしている。
意固地になっているな、とレイドは自覚していた。
それでも、彼にまつわる疑惑は枚挙に暇がない。とことんまで調べあげて、完全に白だと分かるまでは引けなかった。
調査を進めて分かったのは、エーカーが密偵として動いていることを知っているのは、エーカー本人の他には団長だけということ。つまりはその活動について、幹部であるヴァレンティナも預かり知らなかったということだった。
レイドがそれを知ったのは、調査を始めて程なくヴァレンティナに目をつけられたからだ。
団長直属の幹部。ナイツロードの発足以前から、レッドリガと行動を共にしていた謎多き女性。
最悪自身の死を覚悟しつつも、嘘偽りなくレイドが語ったエーカーに対する疑惑に、ヴァレンティナは興味を示した。特に彼女が疑問を抱いたのは、レッドリガが公的機関に対して直接的な手段で探りを入れ、それを自らの腹心でもない一団員に全て任せているという点だ。
自らがよく知るレッドリガのやり方としては、非合理的に思えた。
彼女もまた、団長と一団員間の関係としては不審に思い、レイドの調査に手を貸したという訳だ。レイドが所属する部隊のリーダーであるグーロも交え、情報共有という名の密談を行うのが、すっかり習慣の一つとなりつつあった。
——しかし、幹部でも何も掴めないとは。
レイドは調査に行き詰まりを感じていた。八方手を尽くし幹部の力を借りてもなお、収穫が無いとなると、いよいよエーカーは白だという事実を認めざるを得ない。
むしろ自分たちの調査が、エーカーの潔白を証明しつつある——
果たして、これもエーカーの策なのだろうか。
「ただ、奇妙な点が一つある」
そう言ってヴァレンティナは人差し指を立てる。
伏し目だったレイドも、その一声を聞いて顔を上げた。
「アルドロ・バイムラートってヤツについて、知っていることは?」
レイドは頭の中の団員名簿を開くまでもなく、跳ねた黒髪の少年の顔を思い出した。
「アルドロ……偵察兵の、あの少年ですか。いつも演習場で血気盛んに暴れ回ってるという噂なら」
レイドはそこで言葉を切り、グーロの顔を見上げて彼の意見を促す。
「奴に喧嘩を売られた、とエレクが愚痴っていたのを聞いたことがある」
グーロは顎に手をやり、部隊内での会話を思い返す。
アルドロの名は、ナイツロード内ではそれなりに知れ渡っている。当然、傭兵として優秀だとか、重大な任務を完遂したという名声ではない。むしろ、その逆だ。
演習場で誰彼構わず決闘を申し込む、偵察兵としては闘争心旺盛過ぎる少年。
いつ頃から始まったのかは分からないが、明らかに自分より力量の勝る相手に挑んでは返り討ちに遭う彼の姿は、傭兵団内でもちょっとした名物になりかけていた。
「そいつの作戦履行履歴を調べた。演習場に入り浸ってるもんで、任務への参加回数も少ねえ。たまの任務もCランク兵だけあって大したことはしてないが……」
ヴァレンティナはそこで、上げたままの人差し指に中指を加える。
「ヤツの作戦履行履歴に2つ。ヤツの経歴と実力では到底履行できそうもねェ任務があった」
「それが、エーカーの件とどういう……」
「この2つの任務、作戦指揮者はどちらもイリガル・エーカーだ。しかも2つ目の任務については、エーカーがアルドロを誘ってチームに加えてやがる。国の重要人物の護衛という大仕事に、わざわざCランクの問題児を、だ」
ヴァレンティナの言葉に、レイドは目を見開く。
彼女が挙げた2つの任務のうち、後者はレイドも把握している。3ヶ月前の、セントフィナス王女の護衛任務。だが、前者の任務に関しては初耳だったし、後者についても、アルドロが任務に参加した経緯までは調べていない。
「現状の証拠じゃあ、エーカーの白黒については何とも言えねえ……だがもしかすると、ヤツだけを調べてたんじゃ、てめえの望む答えには辿り着けないんじゃないか?」
確かに調査にあたって、エーカー個人の身元を明かすことに専心しすぎていたかもしれない、とレイドは回顧する。
一応、彼周辺の人間関係を一通り洗ってみたことはあった。その際にアルドロの名も目にしたことがある。だが、アルドロに——愚直過ぎるあの少年に、エーカーへの正体に繋がる何かがあるとは到底思えなかった。
それを見越してアルドロに何かを仕掛けている——エーカーの捻くれた性格からして、全く無いとは言い切れない。
「分かりました。その方面も含めて調べてみましょう……と言っても、今すぐは無理でしょうが」
そう言ってレイドが嘆息すると、ヴァレンティナはその心情を察するように答えた。
「明日の件だな」
それはヴァレンティナにとっても無関係のことではなく——ナイツロードに所属する全団員に深く関係する事柄だ。
とは言っても、この事実は責任者を除いて、部隊長以上の役職者にしか知らされていない。
世界防衛機関WDO役員の訪問。
昨年テロ組織との癒着問題が露見し、人員の削減と権限の分散化、トップのすげ替えが行われたとはいえ——否、それだけの問題を起こしても、未だに国連が手放すことのできない、軍事力と実行力を伴った専門機関。ナイツロードと同じく、異能や法術、超能力を積極的に取り扱う組織。
世界の均衡と平和を保つという口実で、争いを起こすことも辞さない者達。
名目としては「新たに就任した役員の挨拶」ということだが、レイドにはそれだけで終わるとは到底思えなかった。そもそも業界最大手とはいえ、一企業に過ぎないナイツロードに、国連専門機関のメンバーが訪問すること自体が不可思議だ。
訪問の旨を記した書状が団長宛に届いたのが、僅か1週間前という性急さも相まって怪しさ満点だが、レッドリガは訪問を受け入れる旨を幹部会議で発表し、その責任者にレイドやフェフを含む団員5名を任命した。
その日から、レイドの仕事は激務と化した。
単なる訪問だけで済むはずはない。
最悪なケースとして考えられるのは、訪問を装って軍事査察が行われることだ。ナイツロード本部の武装は、防衛の為とはいえ同業他社のそれと比較してもいささか過剰気味である。それも、公的に報告している規模での話だ。この戦力が露見すれば、国連も各国正規軍も決して良い顔はしないだろう。
故にレイドの仕事の大部分は、綺麗事では立ち行かない会社の仕事を綺麗に見せることに割かれた。外面を小綺麗に見せることなら、この身は適任だろう——レイドは皮肉気に、自らの
見られてマズい書類は破棄・
要塞外縁の警備も武装も必要最低限に留め——
——そんな準備をしていたら、あっという間に1週間が過ぎ去ろうとしていた。
おかげで、レイドは
代わりの給金は弾んでもらうという団長の約束だが、彼にとってはそれよりも、自身の施策に不手際がないか気が気ではなかった。
「そっちの方はどうだい、グーロ」
レイドは
「1時間後にはここを発つ」
「明日の昼にはプレトリアか。いい所だよね」
「観光ならな」
レイドの軽口に、グーロは言葉少なに返した。
ナイツロードの一団員であり、グーロやレイドと同じ部隊の隊員であるルナ・アシュライズの短期出張の護衛。
それが数週間前、小隊「デュランダル」に与えられた任務だ。
南アフリカ国防軍とナイツロード傘下の軍産企業が共同開発した、地対空兵器の実地試験。
法力技術で先進国から大きく遅れをとっていた南ア軍としては、初の法術を使用する兵器の開発事業であり、テストが成功すれば程なくして各旅団に配備される。そのテストの外部顧問として、ルナが呼ばれたのだった。
今のナイツロードが業界大手の座に在るのは、
その研究の筆頭たるルナ・アシュライズは——未だ二十歳にも満たない
コソボでの動乱以降、法力の存在が世に広まり、数多の競合他社が濫立した現代で、彼女はこの傭兵団の利潤の一柱を担っていると言っても過言ではなかった。
当然、会社としてはそんな要人を単独で向かわせる訳もない。それで、同じ部隊員であるグーロとエレクが護衛に駆り出されることになったのだ。
つい1週間前までは、レイドもその護衛任務の一員だった。
「ルナはお前がついて来て欲しいと言って聞かなくてな……せめて、見送りだけでも頼めるか?」
グーロの問いに、レイドは力なく首を横に振る。
「すまない、日付が変わる前に各支部への連絡と警備の最終確認をしなくちゃいけなくてね」
レイドも同行したいのは山々だったが、さすがに団長直々の任務とは
警備責任者達にも、長らく指示を出せずに待たせてしまっている。デルタやビットは多少待たせても小言を言うようなタイプではないが、エクスあたりは尾を引くだろう。
何より自分が顔を出せば、ルナがますます駄々をこねるのが目に見えていた。
「見送りくらい行きやがれ」
後ろでずっと聞いていたヴァレンティナが、思い切り引っ叩いた。