A地帯

創作小説、ブロント語、その他雑記等。

アンジャスト・ナイツ3/Balance of power #26「Leah's Last Hope ②」

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 薬品とカビの臭いが充満した寝台の上で、『私』は目を覚ました。

 透き通るような白色の壁と睨み合うこと寸刻、その白の壁が天井であることに気づくのと同時に、自身が人間であることを自覚する。
 ベッドに仰向けに寝かされていることに気づいた私は、起き上がろうとして——全身に激痛を覚え、力なく倒れた。

 自分の名前は覚えている——その身に課せられた役割も。
 だが、記憶が飛んでいた。
 断続的に散らばった絵図を頭の中で並べようとするが、この場所に行き着くまでの記憶がない。一番最後の記録は、血に塗れた少年の哀しげな表情で終わっている。

 しかし、はっきりと分かることが一つ。
 私は終わった筈だ。
 自らの胸の中心——あの少年に貫かれた筈の部分に触れる。まごうことなき死の感覚が、役割の終わりが、身体に刻み付けられたのだけは分かる。

 ならば、なぜ生きている?

「起きたな」

 傍から発せられた言葉に、私は聞き覚えがあった。
 自らの上司。あの男を継いだ者。私の罪が生み出した産物。

「中佐——」

 掠れた声で私は呟き、顔を傾ける。
 黒いコートを纏った大男が、ベットの隣に聳え立っていた。
 分厚く巨大な体躯の先から紅い眼を容赦無くこちらへ向けるその姿は、人間というより死神と称したほうが近い。おあつらえ向きの大鎌さえ携えていれば、似合うことこの上ないだろう。

 そんな妄想を頭の隅に追いやり、私は再び、視界を天井に戻す。

「——ここは?」

「セントフィナスの民営病院だ。人目につかず、なおかつ英国(われわれ)の力が及ぶのはこの場所ぐらいのものだからな」

 リクヤはそう言って、葉巻を寄越した。
 いつも「俺」が愛飲していた、ハバナシガー。どう考えても起きたての怪我人に与えるものではないが、今の私にとってはアルコールに次いで必要なものだ。

 されるがまま、私はゆっくりと上半身を起こす。目の前にぶら下げられた餌の効力か、今度はほとんど痛みを感じなかった。葉巻を咥えると、リクヤは懐から燐寸(マッチ)を取り出して、既にカットされていた先端に火をつけた。
 私の体は、頭で思っていた以上によほど有害物質を欲していたらしく、片燃えするのも構わずに煙を吸い込む。当然、病み上がりの体には毒そのものであり、思い切りむせた。情けない嗚咽が病室に響く。

 その様子を嘲るでも憐れむでもなく、ただ無感情で見ていたリクヤは、ふと口を開く。

「だが、お前を救ったのは我々ではない。あの娘の意向だ」

「……レナ・ブルシュテインか」

 激しく咳き込んで再び飛びかけた意識の中に、金髪の少女の姿が現れる。
 ——あの餓鬼、余計なことを。

 葉巻を傍らの灰皿に放り、私は改めて自分の身体を見回す。
 包帯の巻かれた腕と脚は、自らの記憶よりも幾分か細くなっており、とても兵士の体には見えない。関節は油の切れた歯車のように自由が効かず、少し曲げるだけで軋みと痛みが脳に伝わった。何より、包帯の間から覗かせる体表は焦げたように黒ずんでおり、自分が焼死体になった様を眺める気分だった。

「あれから何日経ちました?」

 年かさ故の疲労や戦闘で負った怪我とは、少しばかり毛色が違う痛みを感じて、尋ねる。
 リクヤは壁にかけられたカレンダーに目をやった。

「半月といったところか」

「なるほど、体が硬いわけだ」

 私は笑って灰皿の葉巻を手に取り、煙を吸い込んで、再びむせる。
 望む快楽を得られずに苛立つ「俺」を余所に、この半月の出来事を補完しようと「私」の頭は回転を続けている。半月もの間眠りこけていられたあたり、私の生存はごく一部の人間にしか伝わっていないだろう。

 例えば、私の身柄を保護した当人である、レナとその直属の配下数名。
 あの少年が水中戦艦に来たことを鑑みるに、彼女は私の希望通りに依頼を完遂した。しかしその後の行動は、完全に彼女の独断だ。
 私が自身の暗殺(・・・・・)を依頼した時点で、彼女は私の保護を考えていたのだろう。でなければ、落水して法力水爆の自爆が起こるまでに、救助などできるはずがない。部下達も、彼女の命令に渋々追従しただけだ。WDOの内部機密が頭の中にある人間をむざむざ生かしておくほど、彼らは甘くはない。
 総司令官の椅子に座って一年弱のひよっ子であることを勘案しても、機密を盗んだ当人を同情で殺し切れないあたり、手緩いと評せざるを得なかった。

 レッドリガは認知しているかどうか見当もつかないが、最早役割を失った私に興味は示さないはずだ。再び出会えば間違いなく殺されるが、地の果てまで追うほど執着しているわけでもあるまい。
 私からの「贈り物」にも、満足してもらえるはずだ——水中戦艦と人造兵、そして法力水爆の実地試験(・・・・)の結果は、フィニアを通してレッドリガに渡る手筈だった。軍事協定に加えてそれらの成果は、今回ナイツロードが失った人員や設備と比較しても、釣りがくるほどの価値がある。
 何よりも、WDOの一枚上手を行っているという優越感が重要だ。業界最大手とはいえ、一企業と国連直下の専門機関が肩を並べるには、それ相応のハンデが要る。レナには悪いが、これを教訓に励んでもらう他あるまい。自分一人の欲求を叶えて満足する子供とは違い、大人は自陣の利益と面子を重視するのだ。

 そして——目の前にいる大男。
 世界的大企業たるナイツロードと、国際機関たるWDOの両組織から厄介払いされた私の身柄を隠せるのは、この場所(セントフィナス)しかない。必然的に、この地に影響力を持つMi6が護衛を引き継ぎ、自らの上司がその担当になるのは道理だ。
 だが、まさか私が目覚める時間が分かっていて、この場に居合わせた訳がない。当護衛任務の主目的は「外敵からエーカーの存在を隠す」のと同時に、「エーカーを外に逃さない」というものでもあるはずだ。つまり、この男は半月の間セントフィナスに留まり、見張りを続けていた。

 嫌な予感がした。

「——あの後、ユキナのところへは、行きましたか?」

 返ってくる答えが分かっていながら、私はバーの女店主の名前を出し、恐る恐る訊く。

「いや、まだだが」

 果たして、予期どおりの言葉が返って来た。リクヤの答えに私は愕然とする一方で——当然のことだと自戒する。
 全ては私が始めたことだ。罪を(あがな)うならとことんやれ、ということか。

「中佐」

 私は口を開く。覚悟はしていた筈だったが、喉は渇ききり、唇が震えていた。
 肺から空気を押し出し、口先まで出た言葉を飲み込みかけ、それを押し切り嘔吐するように声を発する。

「あんたは知らないだろうが……ユキナは、あんたの妹だ」

 リクヤの深紅の瞳が、微かに揺らぐ。
 勢いのまま、私は言葉を続けた。

「あんたの両親を殺したのは、私だ」

 私の告白に、しかしリクヤは瞳に動揺を写せど無表情を貫いたまま、無言で続きを促す。

「あんたの前任者——アラベスク中佐は、私の罪を見逃す代わりに、一つの役割を私に命じた」

「それが、二重スパイというわけか」

 まるで分かっていたかのように、リクヤは言葉を継ぐ。

「そうです。当時WDOが設立され、ナイツロードが現れ、世界に法術が広まりつつあった。法術による終末戦争を危惧したアラベスク中佐は、私を緩衝役としてMi6に置き、組織の決定的な衝突を避けることを命じた」

 勢力均衡(バランス オブ パワー)——

 平和を求める暴力装置と、戦争を糧とする殲滅機構。
 二つの組織がほぼ同時期に生まれたことが、この世界における最大の不幸だと言い切れる。

 片方が失われれば、もう片方が暴走する。
 互いが失われれば、新たなる火種が生まれる。

 均衡が崩れそうになる度、私は手を汚した。
 自らを偽り、仲間を騙し、敵も味方も手に掛けた。
 両陣営が手を組むその日まで、私は生き続けることを強いられた。

「それが、お前の罪滅ぼしというわけか」

「——そうだ」

 私は力なく答える。

 全て吐き出した。
 力、役割、秘密、罪業。これまで身体と頭蓋の内に秘めていた全てを、ここに(さら)け出した。
 残ったのは、役目も価値も失った、老体の男ただ一人だ。

「だが、それも今日で終わる」

 私はそう呟き、身体中の痛みを無視しつつ、寝台の脚に手を伸ばす。
 予想通り、裏側に護身用の拳銃が据えられていた。諜報員としての、最低限の備えだ。
 実弾が装填されていることを確認し、それを目の前の男に手渡す。

「私を殺せ」

 この男が仇を討てば、それでこの長い筋書きは幕を閉じる。憎まれ役の最期として、申し分ない結末だ。地獄行きはまず免れないだろうが、少なくとも現世で贖うべき罪は清算される。

 私は目を閉じた。

 死に対する恐怖感はなく、ただひたすらに安堵だけがあった。
 課せられた役割を全うしたことへの安堵。
 これまで奥底に隠し通したものを、表に出せたことへの安堵。
 自らが負った罪に対する罰を受け、死ねることへの安堵。

 後は、目の前の男が引き金を引けば全てが終わり、全てが完成する。

 ——しかし、予期していたはずの衝撃は、いつまで経っても訪れない。
 私が目を開けると、リクヤはその銃口を私に向けるどころか、構えることもしていなかった。

「何故、その必要がある」

 彼の口から放たれた言葉は、私にとっては理解が及ばない。
 しばらく思考が停止していた私は、リクヤに殺意がないことを悟り、困惑した。

「私があんたの両親を殺した。仇が目の前にいるんだぞ」

 思わず、声を荒げる。

「憎くないのか」

「……どうやらお前は誤解しているようだ」

 リクヤは静かに呟く。その声を聞いた瞬間、私の背筋を冷たいものが通った。

「お前が私の両親を殺したというのなら——私は、お前に感謝する他ない、イリガル・エーカー」

 そう答えたリクヤの表情は、笑っていた。
 物騒すぎる言葉に反して、ひどく穏やかで、晴れやかな笑顔だった。それが仮面などではなく本心からのものだとすぐに理解し、私は恐懼する。

「あの夜、お前が二人を殺さなければ、私はこの世界を知らぬままに生き、知らぬままに死んだだろう。だが、お前は私を在るべき場所へ導いてくれた——戦場にな」

 代えのない肉親を奪った男に向けて、彼は笑顔のままそう語る。
 皮肉も建前もない、心からの礼。それがどれだけ人道を踏み外しているか、倫理の悉くを無視してきた私でも理解できる。

「憎めというのなら、私は私を戦いから遠ざけようとした、自らの親を憎むよ」

 私は蒼ざめ——自らの真の罪を自覚した。

 私の罪は、この男の両親を殺したことではない。
 この男を——否、この怪物を解き放ってしまったことだ。
 そして、それはもう償いようがなく、取り返しがつかない。

 ……ならば、今まで私がしてきたことは何だ?
 多くの犠牲を払って辿り着いたのが、この結末か?

 そんなことがあっていいはずがない。
 罪を負ったものは、裁かれなければならない。
 それが道理であり、自身の役割はその為にあったはずだ。

「お前の役割は終わった。後は好きに生き、好きに死ぬがいい」

 私の思考を余所に、リクヤはそう言い置いて立ち上がり、背を向ける。最早、目の前の男に微塵の興味も湧かない、というふうに。
 その背に私はしがみつこうとし、ベッドから落下した。衝撃で傷口が開き、身体に巻かれていた包帯に血が滲む。その痛みに構わず、私はひたすらに手を伸ばす。

「待て——殺してくれ——」

 遠ざかる男に向けて懇願する。
 自死では意味がない。しかるべき人間がしかるべき殺意を持って討ち果たさなければ、自らの積み重ねてきた悪徳と釣り合わない。

「私を、殺せ——」

 (つい)ぞ私の願いは聞き届けられることはなく、男は扉の向こうへ消えていった。