A地帯

創作小説、ブロント語、その他雑記等。

アンジャスト・ナイツ3/Balance of power #24「Moonlight Cooler ⑧」

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 沈黙に満ちた部屋に、不意に電話の音が鳴り響いた。

 レイドがマンション内に拘束されてから1時間が経過しようとしていた。
 窓の外はすっかり陽が落ちて、都市(ロンドン)の夜景を映している。部屋には照明が備え付けられていなかったが、満月の青い光が2人の姿を鮮明に照らしていた。

 レイドは俯いていた顔を上げ、窓際に立っているリクヤに目を向ける。何もせず椅子に座っていただけだったが、端正な顔立ちの上には疲労の色がありありと浮かんでいた。

 ここまでの時間、レイドは幾度となく部屋からの脱出を目論んで——壁や天井の向こうから発せられた生活音を耳にし、断念した。少しでも不審な動作をとれば、目の前の男は全力で阻止しにかかるだろう。当然、レイドもそれに全力で抵抗する。そうなれば、周囲の人間の——無関係な一般人の安全は保証できない。
 ちょうど隣の部屋から、談話する声が漏れ聞こえた。住人は、まさか自分たちが人質にされているなどと、夢にも思うまい。
 今のレイドは、本部にいる身内全員が危機に晒されているのを承知の上で「何もするな」と言われているのと同義だった。これならば、いっそのこと拷問にかけられていたほうが気が楽だ。痛みに耐えている間は、仲間の安否に思いを馳せて心を痛める暇もないだろう。

 そんな妄想を頭の内で繰り広げている間に、リクヤはコートの内ポケットに手を伸ばして携帯を取り出し、通話ボタンを押して耳に当てた。
 レイドの位置からは会話の内容を聞き取れなかったが、微かに通話相手の声が耳に入った。意外にも、それは若い女の声だった。どこかで聞き覚えがあるような気もしたが、誰かまでは判別できない。

「——ああ。ご苦労だった」

 リクヤはそれだけ告げて電話を切ると、携帯を懐に仕舞い、レイドに向き直る。

「要件は済んだ。我々はもうお前の行動に干渉しない。何処へなりとも行くがいい」

 要件とは何だ。
 エーカーが死んだのか? それとも、法力水爆が爆破して本部が沈んだのか? 矢継ぎ早に質問したい欲求を、ぐっと堪える。問うたところで、曖昧な答えが返ってくることは目に見えていた。
 リクヤの言葉からは明らかに、レイドに対する関心が急速に失われているようだ。最早、レイドは部外者同然だった。目の前の男は、そんな彼に懇切丁寧に説明してくれるようなお人好しではないことを、もう十二分に理解している。

「……随分あっさりと解放するんですね?」

 うんざりした声を包み隠そうともせず、レイドは代わりの問いを投げかけた。
 返答に込めたありったけの皮肉は、果たして相手に伝わっただろうか。リクヤは表情ひとつ変えることなく受け答える。

「任意同行だからな。まっすぐ帰宅するのなら、空港まで見送ろう」

 こんな任意同行があってたまるか——という抗弁を喉奥にしまい込んで、レイドは椅子から立ち上がる。
 口ではああ言っているが、相手はまだ、レイドを完全に自由にしたわけではない。「空港まで見送る」とは即ち、「空港までの道すがらには監視がつく」ということだ。ここ(イギリス)までヘリで来ていることを何故知っているのかはこの際置いておくとして、一刻も早く本部に帰還したいレイドにとっては、足枷でしかない。

「……一人で大丈夫ですよ。子供でもあるまいし」

 それをどうにか拒否しようとしてレイドが口にしたのは、苦しい返しだった。心労が(たた)ったのか、すっかり頭も鈍っているらしい。
 だがレイドの予想に反し、リクヤは「そうか」とだけ答え、それを咎める二の句は継がなかった。どうやらこの先のレイドの行動は、彼にとって興味の埒外(らちがい)にあるようだ。レイドの胸の内に再び、仲間の安否に対する心配が募っていった。

 リクヤと共に、殺風景な部屋を後にする。先に聞かされた通り、このマンションはレイドがいた部屋を除いて、ほぼ満室のようだった。居住者がいるであろう部屋には黄色い光が灯り、窓を通して建物全体を仄かに照らしていた。夕食時なのか、何かしらの野菜を煮ている匂いがここまで届く。そういえば、今日はバーで飲んだミルク以外には何も口にしていない。それを思い出して、急激に空腹感を覚えた。
 おんぼろの昇降機を跨いで、不規則に点滅する蛍光灯に照らされた廊下を通り抜け、「ロイヤル・ローン・ビルディング」の表札の下をくぐる。
 ビルの沿道には通行人の一人もいなかった。向かいの公園もすっかり人の気配が失せており、街灯の周囲を飛び回る蛾の群れ以外は、時間が静止しているようにすら思えた。

 この場所なら、無辜の人間を犠牲にすることも、他人の目に留まることもない。
 剣呑な妄想を頭によぎらせながら、レイドは()くこの場から立ち去ることに決める。今隣の男を血祭りにあげたところで、溜まったフラストレーションの発散にしかならない。今は一刻も早く本部に帰還し、状況を把握するべきだ。
 足早に一歩を踏み出そうとした、その背をリクヤが呼び止める。

「火はあるか?」

 レイドが振り返ると、リクヤはいつの間にか煙草を口に咥えていた。
 この周到な男に限って、まさか燐寸(マッチ)やライターを携行し忘れたというわけがない。それとも、子供が昆虫を捕まえたり放したりするのを繰り返すように、こちらを(もてあそ)んで愉しんでいるつもりなのか。
 最早それを尋ねるのも億劫になったレイドは、素直に収納装置からオイルライターを取り出し、煙草の先端に火を灯す。

「すまんな」

 一言断りをいれたリクヤは、紫煙を吐き出す。白い煙は、夜の空に希釈されるように消えていった。

「何故抵抗しなかった?」

 思い出したようにそう問うリクヤの声は、相変わらず氷のように冷たかったが、幾分かこちらに向ける興味が(よみがえ)ったようでもあった。
 だが、質問の意図が分からない。

「僕が抵抗しないよう仕向けたのは、そちらでしょう?」

 この拘束——もとい、任意同行とやらは、レイドの人柄をよく理解し、ある意味レイドの持つ良心を信頼した上での作戦だ。レイドが、自らの目的の為に他人の命を平気で捨てられる、冷酷無比な人間ならば、この策は成立しない。この作戦の責任者であろう彼が、それを一番よく分かっている筈だ。

「……まぁ、そうなんだが」

 レイドの非難めいた回答に、リクヤは困ったような反応をする。この長い1時間の中で始めて、彼は感情の乗った言葉を口にした。
 まるで、友人に約束を不意にされたような、あるいは勝てると思っていた賭け事に負けた時のような、そんな声音。
 そこから彼の真意を垣間見たレイドは——戦慄に背筋を凍らせた。
 いや、まさか、そんなはずは。思い浮かんだ仮説を即座に否定しようとしたが、自らを覗くリクヤの紅い瞳に映った景色が、レイドの推測が正しいことを否応なく証明させる。

 この男は、レイドが抵抗して殺し合いに発展するのを、始めから期待していたのだ。
 周囲への被害も、事後の処理も、自らの命すら慮ることなく、全力の殺戮が始まるのを今か今かと待っていた。そうでなくては、組織(Mi6)でそれなりの地位にいるであろう彼が、わざわざ危険な現場に出てくることも、レイドがついに抵抗せず時間切れの電話が鳴った後の、どこか拍子抜けした様子も説明がつかない。作戦など、彼にとっては身内と組織に対する建前でしかなく、レイドとの戦いの場を用意する為の口実でしかないのだ。

 最早、戦闘狂という呼称では片付けられない。人の姿をした、人でなしの化物。

「機会があれば、また会おう」

 リクヤはそれだけ言うと、何事も無かったかのように押し黙り、その場を立ち去った。
 去りゆく大男の背に「もう二度と会いませんように」と願掛けしつつ、レイドは自らの使命に立ち返る。
 
 大通りに出てタクシーを拾う。
 車に乗り込みながら通信端末を取り出したレイドは、本部内の誰に掛けるか一瞬逡巡して——とりあえずフェフのアドレスをプッシュした。
 だが、繋がらない。この非常時に端末を放っぽり出すことはないだろうから、何らかのトラブルが起きていることは確かだった。
 レイドの中で、急速に不安が膨れ上がる。

 何事もなければよいのだが。














「思ったよりキツイな……! これは!」

 41個目の魚雷を複製し終え、フェフは悪態の言葉を吐きながら床に崩れ落ちた。

 能力の乱用のせいか全身から汗が吹き出し、息は切れ、鼻や口から血を吐き出している。穴の空いたバケツから水が目減りしていくように、生気と寿命が失われているのを実感する。
 球体と自身を取り囲む魚雷群の壁は、もう後戻りできないという状況を瞭然と示していた。
 意識を失う間際で、端末から鳴り響く通信音がフェフを現世に引き留めた。

「どうにも、トラブルには事欠かないようだな」

 無線機越しに届いてきたのは、いつも通りの平坦なイクスの皮肉だ。
 それを耳にしたフェフは、思わず笑みを零す。

「おう、そっちの状況は」

「既に迎えの高速艇に乗っている。デルタとアルドロも一緒だ」

 イクスの報告に一安心したフェフは、すぐにその表情を真剣なものにさせる。

「できるだけ離れてくれ。もういつ爆発するか分からないからな」

「……うまくやれよ」

 イクスはそれだけ伝えて通信を切る。
 言われずとも分かっていることだ。

 フェフは歯を食いしばると、再び立ち上がり、能力を行使する。
 すぐに全身に激痛が走った。
 鼻口から血が溢れ、視界が真っ赤に染まる。ぼけた視界に映る自身の手は、枯木のように干からびていた。恐らくは、顔も体も同じ状態だろう。

 構うものか。
 傭兵として、いつどうやって死ぬかも決められぬ身。仲間と本部を守って死ねるのなら、本望だ。向こうに行っても、セーラ含め顔馴染みは山ほどいる。何より、あの世でエーカーの鼻を明かせるだけで紛幸いだ。

 53個目の魚雷の複製を終えたところで、視界が白く弾けた。
 それとほぼ同時に、端末に着信が入る。
 人生最後の直感で、通信相手が誰か、端末を見ずともフェフには分かった。
 そういえば、最後の挨拶くらいはしておくべきだったか——そんな軽い後悔と共に、フェフの意識は掻き消えた。