A地帯

創作小説、ブロント語、その他雑記等。

アンジャスト・ナイツ3/Balance of power #プロローグ

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 薬品とカビの臭いが充満した寝台の上で、『俺』は目を覚ました。

 昼か夜かも分からない薄暗がりの部屋は、死体置き場のようだった。
 煤けた灰色の壁と睨み合うこと寸刻、その灰色の壁が天井であることに気づくのと同時に、自身が人間であることを自覚する。
 ベッドに仰向けに寝かされていることに気づいた俺は、起き上がろうとして——左肩に激痛を覚え、力なく倒れた。

 横目で痛みの出処を見やると、左肩は包帯で雁字搦(がんじがら)めになっており、その一部からは赤黒い染みが見て取れた。
 穴の開くような痛みを知覚すると共に、俺はその傷創がどうやって出来上がったのかを思い出す。

 盗みをしくじった。

 周囲に人気のない家を狙ったのまではいい。住人が寝静まった頃合いを見計らって侵入したのもいい。体の調子が良い満月の夜に敢行したのもいい。
 だが、それが軍人の家だったことが運の尽きだった。

 家に忍び込むなり、武勲で授かったであろう記章が飾られているのを目にして、柄にもなく狼狽してしまった。
 物音立てたところを家主とその妻に見つかり、いつも脅しの為に使っていた短銃を眼前に撃ち尽くしたところで、俺の記憶は途絶えている。

 我ながらあまりのお粗末さに自嘲しつつ、現在に思考を戻す。
 結果として死なずには済んだようだが、肩に銃弾を喰らって気を失っていたようだ。
 あれから、どれだけの時間が経ったのだろうか。分からないことだらけだが、確かなことが一つ。
 盗みに入った家ではなく、病室の寝台に寝かされているということは。

 俺は、捕まったということだ。

「起きたな」

 禿げ上がった頭に眼帯をつけた、剣呑すぎる大男を目端に捉えて、俺はその考えを強くする。
 俺に向かって放たれたであろう男の言葉に、気遣いの感情は一切ない。
 少なくともこの男は医者ではないだろう。医者として繁盛するにはあまりにも見た目が悪すぎる。

「警察か?」

 俺の問いに、男は表情を変化させることなく答える。

「軍人だ。お前が殺した人間の——知り合いだ」

 その言葉には憎しみの類はなく、至って冷静だった。
 しかし「知り合い」と濁した言葉の裏に、様々な思いが去来したことを肌で感じ、この男が殺した家主の友人であることを察知する。

 親友を殺した仇となれば、どんな暴虐の末に死に追いやられても、弁解の余地はない。
 先に命を奪ったのは、自分なのだから。
 ——だとしても、死への諦観が生への執着を上回ることは、断じてない。
 死んで地獄に堕とされるくらいなら、肥溜めで生きながらえている方がマシだ。

 しかし眼前の大男の前では、どんな弁明をしようと無駄に思えた。
 正直、この男が軍人というのも眉唾もので、冥府の渡し守という肩書きの方がしっくりくる。

「俺を殺すのか?」

 すっかり生殺与奪権を握られて自棄になっていた俺は、震えた声で言い放った。
 死の恐怖を自覚した俺の笑みに反して、男は仮面のような無表情を貫いている。

「いいや。もっと酷い罰を受けてもらう。生きなければならないという罰だ」

 男の言葉は、俺には意味が分からない。
 生まれてこの方、下水と汚物と暴力しか目にしてこなかった人間にとっては、理解が及ばない。
 このクソったれの世界では、何をしようと生を繋ぐことが正義であり、死こそが終わりだと。
 死よりも酷い刑罰が、この世に存在するはずがないと——その時は、そう思っていた。

「名前はあるか?」

 俺の思案をよそに、今度は男の方が不躾にそう尋ねる。
 格好を見て、孤児だということは相手も承知の上だ。言葉を交わせる程度の学はあると分かった上での質問だろう。

 名前などあるはずもない。少なくとも——親から与えられたものとしては。
 親から命以外の何をも授からなかった俺にとっては、名称など自分と他人を隔てる為の記号に過ぎない。
 生きる為に不可欠というわけでもなし。ただ、仲間内で呼び合う時に不便になるから必要というだけだ。
 それが自分のことだと判るのならば、どんな呼ばれ方をされても苦ではなかった。

 それでも——頭に残りやすい名前と、そうでないものというのは、確かに存在する。
 観光客を標的にした詐欺の為に英語を覚えて間もない頃、盗品の中にあった一銭にもならない詩集。
 中身を見ることなく打ち捨てたものだが、何故だかそれを書いた奴の名前は忘れることができず——

 ——いつしか、自分自身がそいつの名前を名乗っていた。












 グラスの中の氷が鳴り、『俺』は我に帰る。

 嫌に彩度の高い茶色をした木目をしばらく睨んで、俺は自身が人間であることと、その役割を自覚する。

「今日は随分と呑むのね」

 不意に掛けられた言葉に顔を上げると、店主の紅みがかった双眸が俺の顔を捉えていた。
 少女かと見紛う長い白髪の小柄な女が、俺の顔を覗き込みつつ、空いたジンの瓶を片付けている。
 その性格をよく知っている身としては可愛げより恐ろしさが勝るが、少なくともモーニングコールの相手としては、禿頭の大男よりかはだいぶマシだ。

「ああ」

 呻きにも聞いて取られそうな返事を出しつつ、俺はグラスの中の酒をあおった。

 たちまち焼けるような感覚が喉を通り抜け、胃に到達する。
 微睡みかけていた脳味噌は、氷柱を刺されたかの如く冴え渡る。

 コロコロと立ち処を変えてきた俺とは違い、幾年月が経ってもどんな場所で呑んでも、この酔いは変わらない。
 何千回と味わってきた感覚に、俺は親しみさえ覚えていた。
 家族も故郷も無い俺にとって、この酩酊こそが麗しきマイホームと表現しても過言ではなく。
 座標にも時間にも縛られない分、むしろこちらのほうが割が良いとも言える。

 この感覚とも、今日でお別れだ。

 氷だけになったグラスをカウンターに置くと、俺は椅子の下に置いてあったアタッシュケースに手を伸ばし、それをグラスの横に並べた。

「今までのツケだ」

 俺の言葉に、店主はぱちくりと紅色の目を丸くさせる。

 いつもの様に、溜めに溜めたツケのことなど有耶無耶にして出て行くと思っていたのだろう。
 あるいは、貸した金をしっかり返すという誠実さが目の前の男にあったのか、と。
 誠実という言葉が似合わないという自覚はあるが。

「どう言う意味」

 彼女がようやく絞り出した疑問は、しかし答えるまでもない。
 彼女にとっては痛いほどその意味を理解しているはずだ。
 とはいえ、年若な女に得心してもらうには少々酷だったかもしれない。

 俺は俯いたまま席を立ち、客の一人もいない閑散とした店内を振り返る。
 すっかり懐かしき酔いは消え去っていた。途端に口惜しさを覚えて、早いところ店を出ることに決める。
 出口へ数歩歩き出したところで、肝心の事柄を言い忘れていたことを思い出し、後ろを向かぬまま告げた。

「今度中佐が来たら、本当のことを伝えろ。いいな?」

 その言葉は、果たして石像のように固まっているであろう彼女に届いただろうか。
 いや——もう俺が思量するようなことではない。
 歩を進めながら、頭の中に残った感情的な部分を振るい落としていく。
 希望を見出すような感性など、ここに捨てていく。これから向かうべき地獄には不要のものだ。
 この歩みの先で第八の(ふくろ)が、この身を焼かんと大口を開けている。

 そう意気込んでドアノブに手をかけたところで。
 アタッシュケースを開ける音が店内に響いた。

 彼女は目にしただろう——その中に入っている、5枚の紙切れを。
 当然、この場所で経験してきた酩酊の回数と50ポンド紙幣5枚が釣り合うはずもなく。

「——全然足りないんだけど」

 彼女が全てを理解して怒号を背中に届かせる前に、『私』はそそくさと地獄の門をくぐった。